このエッセイは、小説家になろうでの連載作品を一部改稿のうえ転載したものです。
その点をご留意の上、お読みください。
マスター
スライディング土下座でごめんなさい。
前回「つづく」と言いましたが、寄り道したせいでまだ続きます。
それもこれも良書に遭遇したためで……とりあえず、どうぞ。
「Xには2種類ある。AとBだ」
「Xには、AとBの2種類がある」
どなたも一度は耳にしたことがあるだろう。
実際に口にしたことがある人も、いるかもしれない。
思いついた単語を放り込めば、誰でも専門家気分を味わうことができる定型文である。
私も一つ、作ってみた。
小説を書く動機には、2種類ある。
「誰も読んだことがない小説を書きたい」と、「自分もこんな小説を書いてみたい」だ。
どちらが上とか下とかいう話ではない。
ただ「2種類ある」というだけだ。
さて、小説を書く人の向かい側には、小説を読む人がいる。
不思議なことに、小説を読む動機はどうも1種類しかないようだ。それは、
「過去に読んだあの小説のような、まだ読んだことのない小説を読みたい」
という、文字に起こせば、なんとも我儘な希望である。
もちろん例外もあるだろう。「人に勧められて」だとか、「学校の課題で読んで」だとか。「暇だったから家にある本を読んだ」という人もいるかもしれない。
しかし、書店や図書館の書棚からその一冊を選んだ時、あるいは小説投稿サイトのランキングからそのタイトルを選んだ時、私たちは過去の成功読書体験をもとに選んだはずだ。
もう少し具体的に言えば、同じ作者、同じイラストレーター、同じレーベル、同じジャンル、似たようなタイトル、似たようなキーワード……
私の話をすれば(以下、読みとばしていいですよー)、『スレイヤーズ』にハマって神坂一先生の『日帰りクエスト』を読み、富士見ファンタジア文庫の『魔術師オーフェンはぐれ旅』を読み、同じ棚にあった電撃文庫の『新フォーチュン・クエスト』を読み、隣の棚にあったコバルト文庫の『ちょー美女と野獣』を読み……『ゲド戦記』『ナルニア国物語』『指輪物語』『モモ』『はてしない物語』『砂の妖精』という読書経歴を経ている。
入口こそライトノベルだったが、「あの小説のような、まだ読んだことのない小説」を探していくうちに『砂の妖精』にまでたどり着いたわけだ。
「小説家になろう」の読者ユーザーも、同じようなことをしているのではないだろうか。
「あの小説」がランキング上位に入っている。
きっと他の小説も「あの小説」のように面白いんだろう。読んでみよう。
「あの小説」のジャンルはハイファンタジーだった。
同じジャンルの小説もきっと面白いんだろう。読んでみよう。
「あの小説」は、ハーレム物というらしい。
同じキーワードの小説は「あの小説」に似ているんだろう。読んでみよう。
「あの小説」にそっくりなタイトルの作品を見つけた。
この作者も「あの小説」のファンなんだろう。読んでみよう。
この他にも、タイトルに自分の好きな「あの小説」と似たキーワードが含まれていたら、読んでみようと思うだろう。
「小説家になろう」では、表紙絵やキャッチコピーの機能がない分だけタイトルが長くなる。「あの小説」に似た要素を新規の読者に示すには、実質そこしかないからだ。
ここまで書けば、嫌でも気がつく。
作者にとっての「誰も読んだことがない小説を書きたい」という動機は、ほぼほぼ無意味だ。
誰かにとっての「まだ読んだことのない小説」は書けるだろう。しかし、読者の「誰も読んだことがない小説」――言い換えれば「誰も知らない世界」を望む声は、少数派だ。
なぜなら、読者の理想は、彼らが過去に読んだ「あの小説」の中にあるのだから。
読者は、作者が脳のスパズムから捻り出した「独自の設定」など望んでいないのかもしれない。
誰も――作者しか知らない世界は、難しいからだ。
面倒くさいと言ってもいい。そこに、作者の力量が試されるとも言える。でも、それに付き合う……読むかどうかは、読者次第だ。興味を引かれなければ、読者は本を閉じ、書棚に戻し、あるいはブラウザバックする。作者にできることは何もない。
「そんなはずはない」という声もあるだろう。
「今までにない世界観を見るとワクワクする」
「革新的な設定で大ヒットした作品は、過去にたくさんあるはずだ」
それは……あるだろう。
だが、その大ヒット作は小説だろうか?
もし小説ならば、その成功は、読者が新しい世界を許容し、あるいは待ち望み、かつ何も知らない読者に伝播しえるほどの技量を、作者が駆使できたからではないだろうか?
先日読んだ本に、次のような一節があった。
「物語が、演技者、事物、世界、行為の枠を最小限描写せずに済ますことはありえない。描写によって与えられるものは、単なる指標にせよもっと長い描写の一節にせよ、物語の参照作用を保証し、物語に現実の重みを付与することを本質的な機能としているように思われる。」
『物語論―プロップからエーコまで』p.68より
物語は、描写によって現実の重みを付与される。
描写があるからこそ、リアリティが生まれる。
先刻、私が指摘した「何も知らない読者に伝播しえる、作者の技量」とは、このことだ。
過不足なく描写し、なおかつ読ませ、読者の中に「今までにない世界観」を構築させる技術――
神業、だろう。
偉そうに書いてはいるが、自分が同じことができているとはとても思えない。
書き連ねることはできる。だが、描写を読ませることがいかに難しいか。
「逆説的なことに物語は、つねに行動の進行を遅らせる描写なしで済ますことはできないのである(たとえこの休止のあいだに、しばしば物語は編成されつつあるにしても)。」
『物語論―プロップからエーコまで』p.68より
小説において、描写を書き連ねるほど、物語の進行は堰きとめられる。
「誰も知らない世界」を描こうとすればするほど、肝心の物語は進まない。
その時、
「過去に読んだあの小説のような、まだ読んだことのない小説を読みたい」読者は、どう行動するのだろう……?
作者が書きたかった「誰も読んだことがない小説」は、はたして読まれるのだろうか?
マスター
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
じ、次回こそはまとまる、はず……
なお、引用した書籍の情報は下記のとおりです。
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『物語論―プロップからエーコまで』
ジャン=ミシェルアダン・著
末松壽/佐藤正年・訳
白水社・版
2004年4月・初版
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