小説は5G時代を殴り返す武器となりえるか?

「なろう」になじめない中年作者が思ったことを書くエッセイ 「なろう」になじめない中年作者が思ったことを書くエッセイ
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このエッセイは、小説家になろうでの連載作品を一部改稿のうえ転載したものです。
 その点をご留意の上、お読みください。

過去の<br>マスター
過去の
マスター

書きかけのまま、ぼんやり放置しているうちに、すっかり間が空いてしまいました。
引用している『物語論』を読んだのも、ずいぶん前のことのように思えます。

まあ現状、3月以前の記憶が、遥か彼方のように思える人の方が多数派かもしれませんが……

今回はいつもよりちょっと長いです。

「読みたい人だけが読めばいい」
少なくとも私は、そう思いながら小説を書いている。

もちろん叶うならば、できるかぎり多くの読者に恵まれたい。
だからこそ、誤字脱字や音の響き、読みやすさに気を配っている(つもりだ)。
時間つぶしの冷やかしで来店したような読者にも、少しでも先を読んでもらいたい。そんな気持ちで、書いては消し、書いては消しを繰り返している。

しかし、それでも、合わない人は合わないのだから、しょうがない。

前々回。
Web小説とは何だろうと考えた時、そこに「知っている人だけに伝わればいい」と思うような「お約束」があることに気がついた。
ちょっと難しい言い回しをすれば、次のようになる。

「物語が、互いに知り合っていて同じ知識(同じ記憶、同じ参照事項)を共有する対話者のあいだで行われるときには、それだけいっそう多くの「欠落」を含みうることは言うまでもない。」

『物語論―プロップからエーコまで』p.135より

「お約束」は、作者と読者の共有事項だ。
読者がすでに知っていることを前提にすれば、作者はその説明や描写を省略し、その分だけ物語を前に進めることができる。展開が早くなるため、スピーディーな読み口になるだろう。世界観ではなく「物語」を楽しみたい人には、こちらの方が読みやすく、面白いかもしれない。

ただし。
「お約束」を知らない読者にとっては、スキップされた説明や描写は「欠落」になる。

この点、小説は圧倒的に不利だ。
なぜなら小説において、描写は物語の進行を遅らせる欠点となる。

映像ならば、物語世界はすぐに観客の目の前へと立ち上がる。
漫画もそうだ。映像と比較すれば、漫画の方が小説に近く思える。だが、漫画こそ描写しなければ形にならない。描写のない漫画は、漫画たりえない。


ここで唐突ではあるが、人類の過去を振り返ってみよう。


かつて、物語は耳から聞くものだった。
あるいは舞や踊り、劇として体験するものだった。
現代人の私たちから見れば、これらは非常に贅沢な方法だ。なにしろ物語を再生してくれる他者がいなければ成立しない。依存しているとも言える。

ついで、人は時間を超える、語り手に依存しない方法を見つけ出す。絵だ。
壁画に顔料を塗り、石を掘り、あるいは刻み、口伝だった物語を絵として残す。
だが絵もまた、時に信仰の対象となるほどに、コストのかかる表現方法だ。得手不得手の差はあれ、絵の描ける人があふれかえっている現代の日本は、人類史から見れば非常に稀な状況なのかもしれない。

くわえて、絵には物語の表現方法として、重大な欠陥がある。
それは見る者の想像力に依存していること、そして多くの場合、物語の語り手を別に必要とすることだ。

考えてもみてほしい。
世界には、聖書のエピソードを描いた有名な絵画が多数あるが、聖書に触れたこともない子どもがそれらを見て、描かれた物語を正しく読み取ることがはたしてできるだろうか?
レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は(マックの窓際のカウンター席かな~?)と思うかもしれないし、「受胎告知」は(生徒が天使のコスプレをしてきて先生が驚いているところ)と思うかもしれない。かもしれない。否定はできない。

そんなわけで(?)、人はついに、文字によって物語り始めた。

文字というのは、そりゃもう大変な発明である。

まず、時間と場所に縛られない。保存方法によっては半永久的に、未来へと物語を伝えることができる。古代人のように、人に依存する必要もないので「……俺が、垣間見た……世界の、真実を……クッ……未来の子どもたちに……伝えてくれ……グハァ!」と中二病的妄想を口伝として後世に遺す心配もなくなる。
※妄想はノートに書いて保存しよう。

また、他の人ならさらっと見逃してしまうような部分についても、入念に、執拗に、指で広げ、|舐《ねぶ》り、吸い尽くすように語りつくすことも可能である。
絵でも変態的な表現は可能だが、文字のすごいところは、物語時間の一瞬を何百倍にも引き延ばして読者に見せつけられることだ。語り手が、いかに見たか、感じたか、読者に追体験させるのである。読者が読むことを放棄しない限り、書き手による時間的拘束は続けられる。

小説の歴史の中で、いかに微に入り細を穿つように書くかが重要だった時代が、確かにあったと思う。
それは、小説の可能性を探る過程では必然だったろうし、現代の作家が実践したとしても間違いと言えるようなものではない。(そもそも表現とは自由なものだ)

しかし、現代の私たちには映画がある。漫画がある。
つーか、スマホとネトフリと公式漫画無料アプリがある。

先ほど絵の欠点について、見る人の想像力に頼っていると書いた。
絵は、物語世界を目の前に突きつけることができる。一方、物語そのものを語ることは非常に苦手だ。混み合った内容になるほど絶望的で、生身の語り手が不可欠となる。

この欠点をクリアしたのが、映画や漫画なのだ。

台詞やナレーションという言語で物語りつつ、画力や映像技術さえ伴えば、語り手のイメージそのままの視覚情報を提示することができる。

正直、しょーじき、小説がまともにやりあって敵うとは思えない。

「まともにやりあう」というは、漫画を読むような、映像作品を観るような感覚で読んでもらう小説を書くということだ。
具体的に言えば「サクサク読める」「簡単に読める」「わかりやすい」……「短編なら30分、中編なら60分、長編なら120分で読み終わる面白いストーリー」ではないかといたっ! 痛っ! 投石やめっ!


……思うんだよなぁ。はぁーあ。


小説に対して「文章を楽しむこと」ではなく「物語を楽しむこと」を求めると、この流れはしかたがないものなのかもしれない。
繰り返しになってしまうが、小説という形態は現代において、本当に効率が悪い。読者の基準や、求められるものが変わってきたのもあるけれど、物語に親しむ主要形態が、映像や漫画に移ってしまったのが一番の原因ではないだろうか。

この状況のなか、私には、Web小説が時代の真正面から適応しようとしているように見える。
ダイレクトにぶつかってくる読者の反応がそうさせるのかもしれないし、プロではない在野の作家たちが文章作法や伝統、しがらみに縛られずに書いているからかもしれない。

そこから生み出される解決方法が、前述のように、すでに読者と共有している世界を舞台とし、描写や設定を省略するというのは、理屈にあっている気もする。


現状、Web小説の評価とは「読める人にしか読めないもの」かもしれない。

しかし、小説というのはそもそもが、読みたい人だけが読めばいいものだ。

私はまだ読めない・書けない側にいるけれど、どうにか自分なりに、映像や漫画とまともにやりあえる小説が書けたらと思っている。

過去の<br>マスター
過去の
マスター

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

間が空いた分、まとまりに欠けている気がするのですが、いつまでも放置しておくのも現在の自己との乖離を招くばかりかなと思い、投稿いたしました。
新しい本を読み、色々考えることもあるのですが、そちらはまたボチボチまとめていこうかと思います。

ではまた。

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『物語論―プロップからエーコまで』
 ジャン=ミシェルアダン・著
 末松壽/佐藤正年・訳
 白水社・版
 2004年4月・初版
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2023年の<br>マスター
2023年の
マスター

「小説家になろう」にて掲載していたエッセイは、これで最後です。
創作の話は、やっぱり書いても読んでも楽しいですね。
改めまして、ここまで読んでいただきありがとうございました!

「読んだよ!」と教えてくれると嬉しいです。
  • 読んだよ! 
  • また今度! 
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