縦書きと横書き

「なろう」になじめない中年作者が思ったことを書くエッセイ 「なろう」になじめない中年作者が思ったことを書くエッセイ
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このエッセイは、小説家になろうでの連載作品を一部改稿のうえ転載したものです。
 その点をご留意の上、お読みください。

折り合いを探している。

何の、といえば、自意識と需要の折り合いである。

もっといえば、自分が心地よいと思う文体と、Web小説で求められる文体との折り合いである。

私は紙の本を読みながら育ってきた。
日本で生まれ、今も日本に住んでいるので、その多くは縦書きの日本語である。

まれに横書きの本もあったが、ほとんどは学校で配られる教科書で、たいくつなものが多かった。
おかげで30歳を超えた現在でも、横書きの本を読んでいるとまぶたが重くなってくる。
横書きの本で楽しく読めたのは、海堂尊の「医学のたまご」か、甘利俊一先生が書かれた「脳・心・人工知能」くらいのものだ。

私の脳は縦書きに最適化されている。

もちろん横書きの文章が書けないわけではない。
国語以外のノートは横書きでとっていた。メールも横書き。TwitterもLINEもFacebookも横書き。仕事で作成する書類も、管理しているWebサイトも横書き。

そういえば中学生のころ、小説を書きとめていたノートも横書きだった。
ただ、最後まで書きあげてはいない。理由は色々あったと思う。内容が背伸びしすぎていたとか、資料をそろえる頭がなかったとか、単純にどう書けばいいのか判らなくなったとか、色々。

ようするに書き続けられなかったのだ。

そしてすぐ、別の小説を初めて書きあげた。
3年次の選択授業のなかで書いたものだ。
まじめに、原稿用紙に書いていた。
縦書きで。

考えてみれば当たり前である。
それまで縦書きの小説を散々読んできて、自分も書きたいと思って書き始めたのだから。

縦のものを横にして模倣しても、うまくいくはずがない。

ただし当時の私は、その成功要因を察してはいたものの、なぜなのかは解っていなかった。
解らないまま、縦書きを選択していた。
原稿用紙しかり、Wordの設定しかり。
高校生になって、誘われるまま演劇部に入り、台本も1本書いた。縦書きだった。

正直、手書きならば断然、横書きの方がきれいに書ける、見た目は。
だてに毎日毎日、横書きでノートをとってない。

けれどそれは、手書きという行為のみの熟達なのだ。
うつくしく書けているからといって、すばらしい文章が綴れているわけではない。

自分の文章を書こうとしたとき、私は過去に読んだ、自分がよいと思った文章に倣っていた。
それは縦書きだった。だから縦に書いた。

オリジナルの舞台を創ろうとしたとき、私は手元にある別の台本を参考にした。
それは縦書きだった。だから縦に書いた。

創作の場において、私は当たり前のように縦書きを選択していた。

私の中で、小説といえば縦書きだった。

だが、今、その認識が揺らいでいる。

書籍や文芸誌、同人誌の世界では、まだまだ縦書きでの組版が主流だろう。
電子書籍にしてもKindleでのラインナップを覗く限り、出版業界に準じているようである。

しかし興隆を極めるWeb小説において、デフォルトは横書きである。

なぜなのか。
それはインターネットという世界がそもそも横書きの世界だからだ。
何のタグづけもしていないプレーンな文字列をアップしたとする。
表示される文字列は横書きだ(縦書き専用のブラウザなどあれば、話は違うだろうが)。

「小説家になろう」でも、公開した小説は基本的に横書きで表示される。
「タテ書き小説ネット」も用意されてはいる。が、これはあくまで読み手のためのサービスである。
書き手の、表現のためのサービスではない。

もちろん、だからといって、書き手の指定する文字組で表示を固定すべきというのではない。
Webの利点は、閲覧者のニーズに即応するユーザビリティにある。
使用するデバイスやアプリも多種多様な状況で、可変性を放棄することはありえない。
読み手に横書き・縦書きの選択をまかせることは、間違ってはいない。

間違ってはいない、のだが。

問題は、横書きと縦書きでは、可読性の高い文体が著しく異なる点にある。

実際に書籍化された作品とWeb版を見比べれば、その違いはよくわかる。
まともな編集者なら出版に際し、縦書きに最適化(という名の書き直し)をさせるはずだ(と信じたい)。

横書きで読みやすい文章を書こうとすると、改行が多くなる。
すると段落がやたら多くなってしまうため、意味のまとまりが把握しづらい。
そのため、段落の代わりに一行あきを入れることで、文章のブロックを作ることが多い。
(これはビジネスメールの場でもよくある書式である)

一行あきには、著者が印象づけたいフレーズを強調する効果もある。
「セリフ」の前後を一行あきではさみ、地の文と間仕切る表現もよく見られる。

これらの横書きに最適化された文体は、縦書きの書籍ではほとんど見られない。
ないわけではないのだが、縦書きでこの表現方法を採用している場合、それは強烈な著者の個性になる。
(私は川上稔先生の「都市シリーズ」を読んで育ったので、そういう権利があると思う)
裏を返せば、この文体を安易に真似すれば「幼稚」「猿まね」と言われかねないということでもある。

ちなみに、段落頭の一字あけについて、私は著者の意図と好みの問題と思っている。
うるさくいう人もいるようだが、放っておけばいいじゃないか。
谷崎潤一郎はあけてないし、舞城王太郎は二文字あけてるし。著者が勝手に決めればいい。

話を戻そう。

横書きに最適化された文体は、およそ縦書きでの主流派にはなりえない。
一方、縦書きで作成された文章をそのまま横書きに組み直しても、読者は読みづらさや違和感を感じるだけかもしれない。

横書きには横書きの、縦書きには縦書きの最適文体がある。

あるいは、古式ゆかしく文章作法と呼ぼうか。

どちらがより相応しいのか。
そんなことを悩んでいると、私は根本的な問題に行きついた。

横書きだろうが縦書きだろうが、書かれている物語が同じならば。
改行のタイミングや一行あきの回数が違っているとはいえ、いずれも同じ単語、同じ文字の連なりならば。
これは同じ小説といえるのだろうか?

小説とは何なのだろう。
著者の生み出した世界を記録した、ただの媒体――文字の集積なのか。
それとも目指す表現のためには一言一句も動かせない練度を至上とする芸術なのか。

おそらく、どちらも正解なのだろう。

私はたどりついた答えを前に、自意識を少しだけ折り曲げた。

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