海堂先生、勉強させてもらいます! ~横組み書籍から考えるの巻~

「なろう」になじめない中年作者が思ったことを書くエッセイ 「なろう」になじめない中年作者が思ったことを書くエッセイ
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このエッセイは、小説家になろうでの連載作品を一部改稿のうえ転載したものです。
 その点をご留意の上、お読みください。

マスター
マスター

あまりになじめないので、いったん外に出るという暴挙。

「学ぶ」は「真似ぶ」だと耳にする。

そのとおりだと私も思う。
ただ、どうせなら好きなものから真似びたい。
仕事ならともかく、好きで書いている表現の世界なのだから。

そういうわけで、横書きになれるためのお手本を用意した。

海堂尊先生の小説『医学のたまご』である。

「縦書きと横書き」でも書いたとおり、私は横組みの本を読むと往々にして眠くなる(学校教育の副作用である)。
先日はブック・オフにて、ケータイ小説なるものをのぞいてみたのだが、年齢のせいか生理的拒絶反応に見舞われ買うことができなかった。
もはやアレルギーである。

『医学のたまご』は、そんな私が一気読みした数少ない横組み書籍のひとつだ。

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『医学のたまご』
 海堂尊・著
 理論社・版
 2008年1月・初版
 『日経メディカル』にて連載
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著者の海堂尊先生は『チーム・バチスタの栄光』で「このミステリーがすごい!」大賞を受賞し鮮烈デビューした、現役のお医者さんである。
デビュー作のほかにも『ジェネラル・ルージュの凱旋』『ジーン・ワルツ』『ブラックペアン1988』など多数の作品が映像化している。知らない人もいるかもしれないが人気作家である。

ところで一般的に海堂作品は、現役医師ならではのリアルな医療ミステリが魅力とされている、と思う。
だが実のところ、その真の魅力は、各作品を飛び石のように渡り歩くキャラクターたちにある。
海堂先生の小説は、私の知る限りすべて同じ世界観を共有している。各作品の主人公は違っても、同じ土地を舞台にしていたり、別の作品の登場人物や縁者がひょいと現れたりしてくる。
『医学のたまご』にも先に名前をあげた作品の関係者が登場する。
一昔前、大塚英二は『物語消費論』で「大きい物語」について論じたが、海堂先生もまたそれを実践していると言える。海堂作品はオタクと親和性の高い世界なのである。
そして私が何より素晴らしいと思うのは、各作品が「大きい物語」によりかかることなく、それぞれで独立した魅力ある物語を作りあげていることだ。

本作でいえば『医学のたまご』の主人公は、あくまで13歳の男の子・カオルなのである。

……ゴマすりを兼ねた著者紹介はここまでにしておこう。

『医学のたまご』は四六版、横組みの本だ。
主人公は桜宮中学の1年生である曾根崎薫(以後カオル)。
ちょっと特殊な家庭環境ではあるが、しかしなにか特別な能力を持っているわけではない。おそらく平均的な男子中学生だ。
物語は、語り手であるカオルの一人称で進んでいく。

改めて巻末のあとがきを読んでみた。
著者はこの物語を「中高生向けに書きました」(p.276)とつづっている。

語り手はごく平均的な中学生だから、納得である。
カオルが見聞きした言葉は、中学生には難しい単語もそのまま記述されている。
だが、それを受けとめるカオルの心情はいたって少年らしいものだ。
一般人には閉ざされた解剖学研究室の世界を、読者は少年の視点で見ることになる。

ここに、私が寝落ちしないで読んだ秘密があるような気がする。
「少年らしい」語り口とは、いったいどんなものだろう?

注目したのは地の文だ。

 まったくもう。僕は舌打ちをする。何遍言ってもパパはメールの書きはじめをDearと英語で書かず、カタカナで書く。中学生は英語を勉強してるんだって、何度も言っているのに。

『医学のたまご』海堂尊(p.26)

 僕はびっくりしてしまった。目の前のおねえさんの声が、いきなり可愛らしい女子大生みたいに変わってしまったからだ。それと、スーパー中学生なんて言葉にも。

『医学のたまご』海堂尊(p.37)

まずセンテンスが短い。
それに、とてもシンプルだ。ほとんど主語が省略されていない。すこし長めの文でも、主語と述語がはっきりしている。

主語への意識は、会話に挟まれる地の文を見るとよりわかる。

 校長先生が言う。
「(中略)」
 僕はすかさず言った。
「(中略)」
 藤田教授は驚いた顔で僕を見た。
「(中略)」
 藤田教授は、僕の家庭が父子家庭だということを、事前に聞かされていたようだ。僕は答える。
「(中略)」
「(中略)」
 藤田教授が言う。僕は首を振る。
「(中略)」
 藤田教授は僕の顔を見つめて言った。
「(中略)」

『医学のたまご』海堂尊(p.15)

長くなるのでセリフ内を省略したのだが、これでより主語の存在感がわかると思う。
考えてみれば小中学生の作文はこんな感じである。
大人になったり、ちょっと書くのが楽しくなると、恰好をつけて主語を隠してしまう。
でも、主語は書いてある方が断然わかりやすい。

また上記に加えて、使われている単語もやさしい。
語り手のカオルは決して学業優秀な生徒ではないから、小難しい物言いを避けるのは当然だ。大人が難しいことを話し出したら「言葉がいきなり難しくなった。」(p.57)と語る。
あくまで中学生の視点である。
(ただ時々「艱難辛苦」なんて難しい言葉が出てくる。趣味の歴史戦記を読んだせいだろう。)

なお『医学のたまご』では、このエッセイのように、頻繁に一行あきを入れて可読性をあげるようなことはされていない。
おそらく縦組みで出版しても、それなりに楽しく読めると思う。

では、どうして著者はこの本を、横組みで出すことにしたのだろうか。

まず考えられる理由として、この作品が研究室を舞台にしている点がある。
研究者にとって研究ノートは欠かせないものだ。
とんだ誤解から研究者となったカオルも、研究メモをつけている(第5章ではそのメモから4日分、まるっと読むことができる)。
研究者の目標のひとつが、学術誌ジャーナルに論文を投稿して認められることだ。その論文は、作中でもふれられるが、英語で作成しなければならない。
目の前の事象は遅かれ早かれ英語で表現される。
よほどの変人でない限り、ノートもメモも横書きの方がとりやすい。

次に、作中に何度も登場するメールがある。
カオルは離れて暮らす父と、毎日メールのやりとりをしている。特に断りもないところを見ると、少年が見ているディスプレイの表示は、世間一般と同じく横書きだろう。
父子のメールはその都度、全文が引用される。
私たちはカオルが読んでいるメールを、同じように横書きで読む。

もう一つ、思いあたる理由がある。
カオルは父の言葉を書きとめる、秘密のノートをつけている。
『医学のたまご』は全12章から成っているのだが、各章に「『____』とパパは言った」というタイトルがついている。『____』部分に、カオルが感動して書きとめた父の言葉が入るわけだ。
物語は、カオルが父からもらった言葉とともに進んでいく。
そして、中学生が使うノートはたいてい横書きである。

カオルが自分の体験を語るとき、縦書きよりも横書きが自然だったんだろう。
たいていの中学生は、原稿用紙なんて見るのも嫌がるものだ。
そして彼らしい語り口がいきる横組みの本だったからこそ、私は睡魔にも襲われず夢中で読んだのかもしれない。

『医学のたまご』はとてもおもしろい小説だ。
適当に開いたページでも、またたく間に私を夢中にさせる。
まるでだれかの日記を、こっそりのぞいている時のように。
(あんまりいい趣味じゃないけどね!)

マスター
マスター

「横組みなのになぜ寝落ちしなかったのか?」という観点で読み返してみたわけですが、想定以上に企画の深みを感じられた気がします。

本ってやっぱり、いいものですね~(←え?)

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